2010年2月アーカイブ
am10:00 タクシーで一路市内の自家に目指す。
正月中つき、道に車の数が少なく、20数分ほどでついた。
北京に向かうタクシーの中。市内に近づきにつれ空気が悪くなって行く・・・
pm2:30 友人Cさんの車に乗り、
忙しく20年も合えなかった友人Mさんの郊外にあるアトリエに向かった。
20年間の変化は会った瞬間 分かった。互いは変わらなかった。トシ以外に・・・
話は20年間ではなく昔の記憶でさかせた。
これで前後を繋がった。(今回、大きな収穫だと言える)
友人Mさんのアトリエの一角。制作途中の巨大な作品を横たわっていた・・・
霧(汚染)の中の赤い落日
pm6:00 そのままレストランに行き・・・
pm9:00 忙しい友人Mと次に"もっと時間を作ろう"と約束し別れた
再び友人Cの車に乗った。"さあ〜、これからの時間がどうしましょうか"と僕の問いに
友人Cは"俺の家に行って飲もう"。
はい、そした。ビール5缶と中瓶程度の56度の酒1本で翌朝の5時まで・・・
17日朝の5時くらい?。自家回りの朝風景。
病院の住人ーー野良猫たち
北京新空港できた後、病院の上空に低空飛行の飛行機が見かけるようになった
北京の冬名物ーー冰糖葫芦(山査子の砂糖付け)
爆竹と花火の売り場。この花火の大きさは恐ろしい!!!
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素晴らしい晴天。風は硬く冷たい。
帰る前にいろいろと"楽しく"計画していた予定を諦め
成り行きに任せることにした。
朝からskypeで知人に"なんかあるかね?"とメッセージを打った
知人から"エリーの子のメールぐらい。"(かな~)
早速メールチェック。
"・・・エリーの父がなくなった・・・電報は・・・"とあった。
ハぁ~〜、偶然だ。妙だ。
知人に"今見た。そんな気分にならん。
こちらも大変!また、(こちらはまた)生きているが、これから病院にいく"のメッセージを送り、
"今 (エリーのための)弔電書き中"と知人から返って来た。
"ついでに僕のためにも・・・"と打った後
そのまま病院に・・・
pm24:00
今日も徹夜になる。
父の病状は良くなっていく。
父は大変腕のいい軍医だ。
しかもお洒落と清潔好き。
ーー(あの時代)輸入ものの金のノンフレーム眼鏡をかけ
髪の毛を丁寧に手入れをし
皮靴はよく磨き、軍服もアイロンをかけていた・・・
が、その反面
我慢とは無縁。わがままも荒い気性も天下一品で有名。
時々、父の職場の近くに通りかかると、知らない人から(知ってるかもしれません)
"君はxxxの息子だね"と声をかけられた時に
大変(不名誉)恥ずかしい思いをしていた。
それが家族にとって苦痛と憎むべきものでしかなく
己の若いごろは何度も父と喧嘩したことか。
(僕は父DNAの1%しか受け継がれていないと自覚している。
か、99%の"悪い"DNAを押さえているかもしれません。笑)
しかし、目の前の父は、昔の面影がなくすでに80歳超えていた。
いま、気力こそなくなっていたが、今夜少しは良くなったところで
"病院は大嫌いだ、主任を呼んで来い、家に帰る"とつぶやく。
3本の点滴をしている状態なのに、泣ける・・・
寝付かない幼いごろの僕を
両親は軽く体を撫で、寝付かされた。
今度は僕の番だ。
嗚呼、相変わらずわがままである。笑
どんなものであれ、辿るつく道は同じだ。
・・・。
am4:00。2/16日になった。
冬の北京深夜は静だ。
深夜2時。新鮮な空気を求め病室の外にて
am6:00。一睡せず朝を迎えた。
なんだか、父はまた息をしている。しかも好転の兆し・・・
am9:30。姉はオーストラリアから駆けつけた。
am10:00。病院関係者は看病と新年挨拶に来た。(なんだか不思議な光景)
am10:30。婦長さんは辰年の虎の縫いぐるみを持って来て
"あけましておめでとう"と挨拶した後、虎の縫いぐるみを点滴の掛け具に掛けた。
ーー白い壁、白いペット、白い医療器具の中に赤い虎の縫いぐるみは目立つ
am11:00。担当の医者は困惑した表情で家族に病状説明した。
曰く"昨夜葬式の準備を と言っていたが、こんなに回復しているとは・・・"
うん、僕も困惑だ。
まあ、いままで4回も危篤状態にあいながら
今日に生き延びたのは確かに不思議。(活きる意欲の強さが感じる)
am12:00。
状況は少しは安心した。途端に昨日の機内食以来
まともに食事を取ってないことを気付き、
眠気と同時に胃が痛くなった。
さあ、とりあえず己の体もなんとかしないと・・・
病院の隣にある父の家(両親は別居生活20数年)に帰り途中
緊急策として、買ったカップ麺を食べ
睡眠薬飲み、着の身着のままで寝た。
pm18:00。
家族で病院近くのレストランで団欒。
注文した北京タックは味はしなかった。
アルコールは飲みたくて飲めなかった。
am9:00。
最後の提出データを送り、メーラーを睨みながら
一週間休みための出発用意を準備する。
pm19:00、ユナイテッド897北京行きの便に乗り、時刻通り離陸。
pm21:30分。北京新国際空港に無事着陸。外気はマイナス6度。
今日はアジア旧暦の元旦。
予定は、このまま市内の自家に行き
20何年ぶりに夜12時になった時の爆竹の興奮を味わう。
はい、今となって恐ろしい騒音に聞こえるかも・・・
と、心構えもした。
pm22:00。無事通関。
後は迎えに来る兄貴の車で一路・・・
と、思っていた矢先、目の前に現れたのは別人。
"今夜は市内の自家ではなく、263に行きましょう"と告げた。
"263だ? なぜ263なんだ?" (263とは軍の病院名)
"とにかく車に乗ってから・・・"
これは怪しい。まさかなんかのジョーク?
しかし、彼の真剣そうな顔を見て
半信半疑で新空港の広大な駐車場に迷い込んだ。
迷ってしまった。停車位置を・・・
10分後に見つけた車に乗り
(軍隊所属の)車は高速を無料通過でハイスピードで走りながら
彼は事情説明を始めた
"実はあなたの父は2日前に263に入院した。今は危篤状態に・・・"
"危篤? なぜ危篤? 先日電話した時にまた元気じゃないか"
と、己の耳を疑った。
・・・・
さすが正月の夜、一路で車一台も見かけていなかった。(気のせい?)
約20分で病院につき、急いで病室に駆けつけた。
病室照明は明るい。医者、看護婦、兄貴、お手伝いさん
と各種医療器具に囲まれた病床に横たわった父は口開けて呼吸している。
医者は"間に合って、良かったね。明日朝持たないかもしれませんから、こゝろの準備を・・・"
これは現実だ、ジョークではなくなった。
段々事情をのめり込んで行きにづれ
今日のなすべき事は
爆竹の興奮ではなく、徹夜看護だ。
pm12:00。360度の空間から爆竹は一斉に鳴りだした。轟音は30分続いた。
僕は 病院の窓から打ち上げた花火が見えた・・・。
(爆竹の振動で、車につけた警報も一緒に鳴った)
病室の窓越しに、樹木の間から見えた打ち上げた花火。