人々の最近のブログ記事
会社勤めの時期に下請け会社のM.K氏はズカズカと仕事場に現れ
"へいへい、よろしく"と名刺を交換したが
忙しさに溺れすっかり忘れていた。
その後仕事の都合で人選を探したところ、M.K氏を薦められ
不安感が持ちながら、仕事をお願いした。
が、結果は大変満足する出来だったし、対応も丁寧そのもの。
"これは、是非打ち上げの席を設けよう・・・"の仕切りとなった。
当時20代後半のM.K氏はDTPからデザインスタートし
以来Webデザイン、コーティング、企画、営業。プラスアルコールの強さ・・・・
まさに、時代の象徴"セレブー"ではなく、"次世代クリエイターのカタチ"に思えた。
その後M.K氏会社をやめ、フリーに転向した。
以来、タイミングがあえば
池袋、新宿、渋谷、恵比寿、新橋、有楽町、秋葉原へと
飲みながら、"デザインは何ぞや"やら
"デジタルの支配はいつまで続く"やらで、話が盛り上げ、
ビル、ワイン、焼酎、日本酒のアルコール類から、水にかわり
話題はもてる男の"遊び"にかわっていた、気がつけば朝の時間になっていた。
仕事の以外にmixiでサイバーな交遊に興じ
ここ最近、"ネットでの知り合い"をリアルな世界に呼び込み、
新たな"仲間結成"を実験し
着々と可能性を掘り、時代の脈動を乗りこなしている。
80年代のバブル期に写真植字屋を経営し、夜遊びに更けていた。
その名残は今も彼のファションセンスに滲み出る。
----何げに今時のサングラスをかけては流行にあわせたりする
僕にとっては、時代の縦軸のような存在-----中肉中背のS氏。
時は90年代前半に差し掛かって、"デジタル文字"は業界の主流になるのを見て
彼は写植業を畳んで、バソコンを手に入れ、華麗にDTPデザイナーに変身した。
(同時期にパソコンにシフトしていなかった多くの素晴らしいデザイナーはそのまま、
時代に捨てられていきましたが...)
"君のデザインはインチキだよ"、
"大体君は余計なことするから、デザインは良くならないんだよ"
は、彼と飲みの席にかけた言葉の定番。
"絶対お前のデザインを超えてやるよ"。と、彼は白髪まじりの頭を振りながら
強い口調で言った捨て言葉。
その後は和やかに飲み続き
気持ちが良く酔うと隣の席にいる子に色目を使い始め、
相手にされないとそのまま寝込んでしまう。
・・・いつ? どうやって横浜より以南にある自宅に戻ったかを
誰も知らない。
90年代後半にWebの仕事の割合が多く占めるようになって来ると
彼はWebデザインとコーティングにチカラを入れ始め
知らぬ間に仕上がりの奇麗さにびっくりし、
"あのトシにしては・・・"と仲間内は密かに感心させている。
彼は現在60代の手前
羽ばたくのには、目が悪くなり、アルコールも控え目にし
記憶力も落ちているとか。気の強さは相変わらずだ
ただいま、インストラクターを勤め
"孤独の若者"に"パソコンでデザインする"のを教えている。
電子マネー推進グループの"ボス"で勤めていた頃のN氏とは
それまで数人で飲み食いしていたが
"x日に時間が空いてれば飲みに行こう"と誘われ、待ち合わせの新橋駅で
時間通りでF氏は一人で現れた。
"うん?一人だけ?"と戸惑いを払拭するために確認したら
N氏は"今日は二人だけで飲みたいな〜"。
場所は点々と換え、3軒目は六本木交差点にある老舗に落ち着いた。
話題も"何の話でしたっけ?"と次から次へと換えていき
いつの間にかN氏のこれからの"進めるべき道"に辿り着いた。
"これからベンチャー企業の社長になるか、
それとも政治家になるかっ"とN氏は話を切り出した。
うん〜〜、政治なんか知らない僕に聞かれてもと返事がしたが、...。
暫く日が経つ。
彼から"現在の会社をやめ、まずベンチャー(小僧com)の社長から..."
の電話での一報が入り、落胆的な決断の速さだった。
日本の"ベンチャー企業"は最盛期、
ライブドアのホリエモンたちが世間に話題を排出し尽くせない時代だった。
小僧comのは後にライブドアの社長に就任したH氏はオーナーで
いち早くシニアSNSに着目したビジネスを展開し
N氏のリーダーシップで仕上げていた。
ただいま、蒲田駅周辺にて
政治家の道を歩むには必須な街頭演説に精を出している。
...。
S社にいった頃次から次へと仕掛けをうみ出し、事業部を引っ張っていた。
やがってグループの売上が黒字に転じる寸前
疲れきった顔つきでS社から身を引き、転職した。
転職したSB社の東京本社から福岡に出向してから
3回も"遊びにおいてよ"と誘われ、3度目の正直で空路で福岡に行き
予約してもらったホテルに着いたまもなく
ひょうひょうと、D氏が室内に入って来た。
控え目な春風満面。笑い
さっそく用意してくれた球団の"ハカマ"に着替え
"我が物顔"で広大な敷地に案内しながら、現在の心情を訪ねると
にゃぁっと"まあ、転職は正解だね"と返事してくれた。
夕方に、球団関係者行き着きの飲み屋で
ご馳走と酒を口にし、八分"酔意"で中洲へと消えた...。
上京で会うたんびにもらった名刺を見ると肩書きが増え
"よっ、こなせるのか"とからかうと、返ってくる笑いが肴に...
彼と食事のはじまりの慣行になっている。
焼酎通でもあるD氏のすすめで、深夜まで飲ませていた。
D氏。ーー天性の勝負師。送ったあだ名は"詐欺師"。( > /< )
プラス永遠控えめな態度。(怒るとさらに控えめになる)
彼はいまSBホークスマーケティングの"総支配人"兼何とかと何とか。
...。
結婚式の出し物ーー好きなウェイクボードをモチーフにデザインしたEdyカード
初対面は某大手S社に入社して暫く立った頃
先輩の方に連れられミーティングの場に現れた若造H氏。
席に着くなり彼の"僕はこういう案がある"、"こう思う"、"こうしたらどうか"...
の生意気な発言の連発を食らい、苦笑いしながら
こゝろの底では: クライアントでもなれば殴ってやるところだぜ。
での、鮮烈な第一印象が残った。
それでも会社は仕事のリーダーシップを彼に取らせた。(さすがS社)
仕事は順調に滑り出し、後何日でサイトリリースにこぎ着けそうになった。
が、肝心なデータ一点が一向に来ないっ!!
H氏に確認電話をいれ、返って来た答えに呆然。
曰く: あっ忘れた!すぐ手配。到着はリリースの前日夜になるかもしれない。
"ふざけるな、こんな対応では仕事になるかっ。リリース時期を延ばせ"
怒りに任せた話を彼にぶつけた。
その後の彼は社内飛び回り、リリース日が延期。
"あっ、正直なヤツだ"。人に初めて申し訳ないことした気分にさせた。
打ち上げの席で、飲んでははしゃぎ
上司の頭を撫でながら、不遜な言葉の連発
と思いきや、今度は女子の後ろから抱きつき、キス攻撃したり
気がつけば、半裸になっていた...。
下半身の緩い若造でも有名だ
酒を誘って飲みに行くと、若い子を連れって来ては
"兄貴、今日は早めに...ごめんっ"と
へらへらしながらあやまって置き、その子と手を繋いで引き上げた。
翌日のメールで"昨日もxxx"との報告内容が届く。笑
彼の話では:大学時代が超真面目に勉強に打ち込み
遊びが一つもしなかった。そうです。
かくして結婚するまでこんな調子で続いた。かなぁ?
趣味も多様!?
食事を約束し、ギターを抱えて現れ、酒の勢いで近くの公園に行きギターを演奏
次の食事では、酒の後にスケートボードを乗って転び、携帯を無くす
また次の食事では、"いま将棋を勉強してる..."と聞かされる
そのまた次の食事に"ウェイクボードにハマってるっ"...
あ〜ぁ、付き合いきれない。
あれこれ"散らかして"ながら、順調に出世道に突き進め、
いつの間にか電子マネーの立役者の一人にのしあがっていた。
この間久々に会い、飲みの席に着くと
"あぁ〜、つらい、疲れた"を連発し始まった。
話を聞くと自分が立案したビッグ・プロジェクトの責任者に抜擢され
慣れなく、ドタバタしている。らしい。
"へいへい、ざま〜みろ"と密かに笑いを堪え、
檄を飛ばしていた。
こんな調子で付き合いが続き、今日に至った。
ただいま、彼は30代なったぱっかり。紛れなく次世代のリーダーに育成され
到頭逃げる事はできなく、その"嫌いな"エリートとなっていたような...。
2008年K氏からもらった年賀状
知り合ってから随分時間が立ちます。
ユニークな発想とアイデアマンでーー僕の日本語教育係でもあるK氏。
ツッコミ隊長の異名を持つ。
同じ職場にいったごろ、帰り道のついでによく終電までアルコール漬けながら、
政治、経済、過去、現在、未来。
職場-日本-世界-宇宙--銀河系。呂律が回らなくなるまで熱く語り
("オンナ"については話題が少なかったことを悔いが残るが... 笑)
八丁堀、茅場町、秋葉、上野、赤羽などの場所で出没するオヤジとコヤジ。
もとは広告系コピーライターのK氏。
さりげなく威厳のあるクリエイターの装いを着こなし
カバンは手持つのを嫌がり、"カバンを前に斜め掛ける"のはステータスとか。
"まじめに、真面目に"はモットー。らしいが
きびきび身構えされているかと思うと、のほほんの一言で周りを砕ける。
人によって、一目に置かれる存在。
デジタルの世界に転向してからは企画とプランニングへと変身し
言わずと知れたインターネット時代。の入り口で、いろいろと策略を講じた。
世間的に"個人の"ホームページは、また普及に至らず90年代初頭
ーーいち早く手打ちhtmlでマイページを立ち上げ、
ライター習性で集まったソースが解説を加え、相互リンク貼り配信したところ
大勢のユーザーから好反響が博したが、思わぬ某経済系大手新聞社に逆鱗。
事態が裁判沙汰になる寸前に発展し、止むなくページの閉鎖で収まった。
事後は本人はヘラヘラしていた。
曰く"ネットの世界で何が起こるかを確かめたかった"とか...
いまではあり得ないことだが、
当時は"リンク"の持つ意味を讀めず時代だった。
上記の某大手新聞社もそのようなものだ。
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時代が進化しても、ネットにのみリンクではなく
人間の繋がりも断たれるまいと奮発したものです。
社内においては、ムードメーカーだ。
現場のスタッフはネットバブルの泡を汗だく吹いていると見て
差し入れを買ってくるなり、エロチック的なダジャレが連発。
すると、たちまち緊張感から解き放される。
女子も"いやん〜、ゲヒンだ"とくすくす笑いながら、差し入れを頬張っていた。
のちの世代に、"ゲヒン"は"セクハラ""キモイ"などと言葉かえ
彼はダジャレを口封じた。本人にして見れば些か不本意かもしれません。
ええと、動物界で言う若猿はボースに反発した時の気持ち?
うん、進化とも言う。
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彼と仕事コンビ組み始めたのは20世紀末頃。
以来、仕事の調子は乗りに乗って、怖いもの知らずになっていくにつれ
"論争"も絶えなかった。時には職場で激論をしていると思うと
次の瞬間は昼飯に出かけていた。
周りのスタッフをビビリ、戸惑っていた光景はいまも記憶鮮明。
職場に限らず、日本の某GLOBAL企業S社の仕事のミーティング席でも
クライアントはそっちのけ、延々とアデイアの仕上げについて熱く議論し、
場をしらけたりもしていた。
そんな感じだが、
周りから"ゴールドコンビ"と見られていたような...。
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在職中も、フリーになった後も
常にモチベーションを高く持ち上げられ、"自己愛"に酔わせた状態に...笑
また、幾度なく仕事、個人的で危機的に状況に堕ちた時に
(僕は絶えず危機的な状況を作り出している)
一言二言で冷静させ、良い方向に向かわせ乗り越えて来たのも
兄貴のような彼と喧嘩ができる仲ではないかと、尊敬と感謝。
現在
飲み物はアルコールの代わりにウーロン
話題は"誰も知らない未来"から"体調が..."へと代わった。苦笑
大学の教室棟廊下
知り合いのK嬢に"君は口が悪い。なぜ?"と聞かれ
うん、恐らく"日本一"の口悪いーー母校のH教授先生の影響だろう。
との言葉で返し、
"在学当時の写真授業中にモデルになってくれた女子学生に
ライトをあてた途端
誰でも聞こえるような呟きで、"ちぇッ、首が短い、ないっ"と言い放った。
その後の彼女は皆のカメラで向けられた前に
必死に泣きを堪え、翌日からゼミーから去っていたのさぁ。"
ほらぁ、どうだ。インパクトのある伝説でしょ。と...。
きっと信じがたい気持ちを持っていたK嬢だろうが
後にH先生に会わせることにした。
約束の時間が大幅に遅れて到着した先生は、改札口に出るやいなや
案の定、K嬢を見るなり"彼と一緒に立つと、君もヘンなヤツに見えるよ"
と、ショックの初挨拶を食らった。(笑
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在学中にアルバイト探しに困りはて、先生と相談したところ
知り合いの制作事務所に入れさせ、デザイン修業させることにした。
その後、時々事務所に来ては、後ろに立ったまま
腕を組み、口にタバコを銜え、首を傾げながら、
"言葉も理解しないお前さんは、デザインなんか無理だろうな〜。..."
"ちぇッ、君はデザイナーに向いてないね..."とか。
返す言葉も見つからず、実に"ムッ"としかできなかった。
"デザイナーは洒落た(高い)道具を使わないと、
洒落た(良い)デザインなんかが出来こないっ"は口癖。
(恐らくプロ意識を養う目的のものでしょ。)
安そうな道具を使っていると見かけると"デザインがうまくならない筈だ"とか
時折、宿題は少しの手抜きがバレたら、
ここぞとぱかりに、怒りもせず、言葉が軽快に変わり
手を抜いた本人の顔が赤くなっていくのを楽しんでいた。
90年代初頭、いち早くパソコン時代の到来を予感し、自らパソコンを購入した。
が、翌日に僕に"お前も買え!!"
添えた一言は"これからのデザイン現場はパソコンが必須だっ"とか...。
反発することができず、秋葉に行きパソコンを購入してしまった。
買った日から"パーソナルコンビュータ"の虜に...。
なんせ当時にしでは、そお〜と高い買い物でもあった。
卒業寸前に"大学院へ進めたい"と、話を持ちかけたら
"君はあんなところに行ってもどうしようない
サッサと卒業し、社会に出て勉強しろ。さもないと卒業させないぜ"とね
これも反発はできなかった。
卒業してからの日々を立つのが速いっ!!
思えば、その節目節目で先生と会い、状況を報告し、アドバイスを求めてきた。
"社会でのお勉強"は10年目くらい立った頃、独立を促してくれた。
いまは会うと"親方"と呼び方に改めて
人生の恩師と崇めている。
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[番外話]
和光大学40年祭に、大学から手紙が届いた。
開けると学校事務の書類以外に先生の直筆の手紙も添えられ
"...この際、彼らに君のweb作品の出品を薦めていた..."と書いてあった。
"えぇ〜、こんなに忙しいなのにぃ〜"と、少しの怒りと戸惑いながら
すかさず先生に電話を掛けた。すると電話の向こうから"あのしゃべり"で言った。
"うん、薦めたのは俺だ。提出するだろう?"。
"ええ〜と、...はい"。説明しても無駄だと悟った。
"やれ、やれ"とブツブツ言いながら
10何年間にわたり、FD、MO、CDにためていたデータから作品を選び、
ようやくA0サイズ一枚に、ポスターふうにまとめたものを
先生に見せたところ:"1枚じゃ駄目た、せめて2枚にしろ"。とね...
あぁ〜、撃沈。
トリオたちの想いを込めた社名。込めた意味を説明求めると怪我する。笑
05年独立したまもなく、一通のメールが舞い込んだ
...昔、一緒にVAIOの宣伝のために熱くなったね、
その後退職し、いまはここにいる。一度会って話をしたいのですが、...云々。
一瞬迷惑メールかと思った。が、言ってることがあってるしな〜
試しに返事メールを出してみた。...、...。
約束の時間に約束の場所に現れたM氏、
"あぁ、ご無沙汰..."と挨拶を交わしたと同時誰たかをも思い出した。
VAIOのサウンドシステムにこだわりをもって熱く語り、うるさかったアイツだ。
しかも"かなりの昔"のことだった。
しかし、再び再会したきっかけをつくったM氏で始まり
M氏だけでは収まらなかった。
のちにミーティングの場に現れたF氏、S氏の30代3人が揃って目の前座れると
真っ昼間なのに、まるで何かの興奮剤をでも飲んだかのように語り始め、
室内温度は上昇しているのでは?との錯覚に墜ちた。
"熱いっ!! 何だ、この連中は...."
ようやくことの実態を把握しはじめたのは
業界に知りわたった「ライセンスオンライン」の言葉を頻繁に口にした時だった。
まさか、目の前にいる"トリオ"はその開拓者たちとは
およそ想像したものの欠片もなかった。
話によれば : 時はネットバブルの絶頂期。
元はアメリカにあるオンラインソフトウエア販売会社に何回も乗り込み、
"日本で同事業の展開は僕たちに..."と幾度交渉の末
日本における事業展開の権利を獲得し、
某物産系大手の社内ベンチャーとしてスタートしたこのビジネスは
たちまちヒットさせたとか...
再会の時点では、ネットバブルがすでにはじけ、アメリカの元会社も倒産
運営権はそのまま日本に移譲した。
業界全体は明るい兆しがあんまり見られないなか
オンラインソフトウエア販売の売上は奇跡に伸びた。
それは熱い努力のたわもので、暫くはのんびりしていられるね
と羨ましがっていた。
が、熱いトリオたちはこれに飽きたらず
母体であるXX物産に、システムの機能強化・拡大のためさらに増資を申し出た。
空しく、現状が満足している"大人"たちに拒否された。
まあ、これで大人しくなるだろうと思いきや
このトリオたちは会社に退職を申し出て、独立の道に走り出した。
"どこまで熱いんだろう"と理解し苦しい2006年末あたりの出来事。
(ちなみに主役不在になったライセンスオンライン社は
後にソフトバンクの買収された。)
●アツイゆえのエピソード:
"独立決起大会"にアルコールの勢いで熱く盛り上がったのはいいが
不用意に"秘"の付く情報を口に走ってしまい、思わぬ後悔する結果を招いたそうだ。
まさしく熱くなり過ぎで、"怪我"にも繋がった。笑
先日"久々会いに行くよ"と電話を入れ
引っ越しをしたぱかりの"トリオ"の会社を訪ねた。
"さあぁ、これからクラウド時代がやってくる。...."
ちっとも変わらなかった。